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2009年12月備忘録
3ヶ月前の備忘録。
いやはや2009年の最後の3ヶ月はアート、ダンス、映画とも充実してたんやなあと、今更実感します。
MAC/VALのサイモン スターリングもle Plateauのケレン シッターもすごく良かった。でもこの二つは私の大好きな作品を作るアーティストさんだから、かもしれません。展覧会としてどうか、と言われたらどうだろう。各作品をじっくり楽しめる造りにはどちらもなっていたけれど、キュレーションの力を見せつけられたというわけではなかったかな。アーティストを知らない人が見た場合どうだったんだろうか。スターリングを知らずに一緒に見に行った私の配偶者は私以上に楽しんだみたいですが。
ダンスも、好きなコレグラファーの公演ばかり見に行った12月でした。そのなかでもジェロームベルの新作「セドリック アンドリュー」はダンサー自身も含めて逸脱。愛してやまないライムント ホーゲの新作は今まで見た彼の作品の中では、私の中でそんなに高い点数がでませんでしたねー。ジェームズ ティエレの「Raoul」も同じく。この二人の私が公演前の期待度が高すぎっていうのもそう思った原因の一つかも。Emmanuelle Huynhが日本人の華道家Seiho Okudaira(奥平清鳳)とコラボレーションした「Shinbai, le vol de l'ame」もとても面白かった。Emmanuelle Huynhの試みはどれも見に行く価値のあるものでいつも楽しみです。
映画としては「In the Loop」が最高!絶対日本で上映されなさそうな映画やけど。
ブリティッシュユーモアが好きな人には絶対おすすめ。


興味のある方はリストもどうぞ。
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03/03 01:15 | 備忘録 | CM:1 | TB:0
2009年11月備忘録
11月の私にとっての大きな展覧会と言えば、リヨンビエンナーレ。これはシフトにも寄稿させていただきました。
オルセー美術館でのアンソール展とアールヌーボー リヴァイヴァル展はどちらも良かった!アンソールの性格も手に取るようにわかって人間味のある回顧展になっていたし、リヴァイヴァル展では「こんな見方したことなかった!」と」とても楽しめました。

映画で素晴らしかったのは、ミカエル ハネケの「白いリボン」。映像も怖いくらい美しいし、内容も怖く美しい。生々しく冷たく描かれる人間たちは皆、逃げ道のない場所でもがくこともせずにただ生き続ける。カンヌのパルムドール納得の作品。


私が大好きなアラン キャバリエの最新作「Irene」も素晴らしかった。私は「キャバリエの「Irene」が」と一日に何度も言ってたんやけど、フランス人やのにキャバリエを知らない人が多くて驚いた。目を覚ませ、フランス人よ。ハリウッド映画にお金を払っている場合ではない!!

Irène Bande Annonce du film
envoyé par LE-PETIT-BULLETIN. - Court métrage, documentaire et bande annonce.

そしてもちろん「This is it」も!同僚と仕事の後に見に行ったんやけど、それから何日も私たちは言葉を交わすたびに「With Love」とか「Heal the world」とか「For the peace of the world」とか語尾につけて、他の同僚たちにはうざいことだったと思います。ボスが怒鳴り散らしてる後ろで「With Love」とか口だけ動かして声を出さずに爆笑したり。あー楽しかった。



ダンスは一つしか見に行かなかった11月。ロシアバレエの立役者であるディアギレフに捧げるオマージュとして、サドラーズウェルが企画した4人のコレグラファーの短編集。
息をするのを忘れるくらい素晴らしいダンスを見せてくれたのは、マリファントの「Afterlight」を踊ったDaniel Proietto。普段はダンサーの名前をチェックしない私でも、すぐに頭に叩き込みました。youtubeではpart 1part 2に分けてみれるようです。当たり前だけど実際はもっとすごいよ。


こうして4ヶ月もあとですけど、振り返ってみると、そんなに数見に行ってないのに、素晴らしいものを見れた充実した11月でした。リストに興味のある方は、そちらもどうぞ。

03/02 23:31 | 備忘録 | CM:0 | TB:0
2009年10月備忘録
10月っていつや?5ヶ月遅れの備忘録。

10月は展覧会やギャラリーよりもダンスと映画によく行った。そんな気がしてたけど、リストを見るとそうでもないかな。まあいいや。

そのなかでもダンスでもちろん最高だったのは「ローザス ダンス ローザス」。これはプログラムが発表された去年の6月からずーーーーーーーっと楽しみにしていたし、もちろんもう一緒に踊れるんじゃないかっていうくらいビデオも見ました。このビデオをYoutubeで初めて見たときの衝撃。いま何十回何百回と見直しても受ける感動。それでもやっぱりすごかった。いつも新鮮。そして今回最前列のど真ん中の席で本物を見れた(そのうえアンナ テレザ ド ケースマイケル自身が踊ったし!)わけです。今年見たダンストップ10に、昔の作品を入れるのはあまり好きではないけれど、もうこれはしょうがない。入れるしかないでしょう。じゃないと不公平。それにしてもキャリアの最初にこういう伝説的な作品をつくってしまうと大変だろうねーと大興奮のなか、配偶者と話したのを思い出します。
だってアンナ テレザ ド ケースマイケルの作品はここか始まって、ここに行き着く気がするから。こんな風に書くとまるで彼女の作品が進歩していないと言ってるみたいだけれど。進歩しているかどうかは私にはわからない。でも彼女の全てが、というよりも、彼女の作品で私が大好きな要素は全て、この「ローザス ダンス ローザス」に入ってる。

ローザスつながりというわけではないけれど、同じ10月にバスティーユ劇場で見た池田扶美代が踊るティム エッチェルの舞台もすごく良かった。


10月は映画を3本見たんだけど、それが偶然にもすべてドキュメンタリー映画でした。ウチで見たDVDもドキュメンタリーが多かったし(ちなみにDVDで見る作品は備忘録には記載しません。) なんかそういう気分やったんかな。まあドキュメンター映画と言ってもほんまにピンキリで、その名前に値しないものもたくさんありますよね。

例えば、日本でも「パリ オペラ座のすべて」とかいうタイトルで上映されたらしい、「La Danse, le ballet de l'Opera de Paris」。これはほんまにひどかった。配偶者と一緒に見に行ったんやけど、無駄に長い映画が終わった瞬間、「なんやこれ!」と二人とも怒りで相手の意見も聞かないまま喋り続けていたのを思い出します。彼が同様にキレているというのは感じたので、多分私と同意見だったはず。まあ、ドキュメンタリー映画ではないですね、ただの宣伝映画です。なんの視点も提示されないので何も考えさせない、お金を払って見に来る観客を馬鹿にした映画。オペラ座で公演されるダンス作品が10分くらいだらだらーと流れたり。そんなんが見たかったら普通にDVDで全編見ますし!オペラ座の裏側が見えるわけでもない。ダンサーたちはただの人形のように振付け師によって踊らせられ、そこにあるはずの苦悩も苦労も努力も葛藤もなにも見せられてない。唯一ダンサーたちの退職後の年金システムについてオペラ座側が話すときも、なんの意見の交換もなくただ「オペラ座はそういうことちゃんとやってるっぽく見せとこか。」という目くらましでしかない。みんな優しくてみんなすごい。こんな映画を「ドキュメンタリー」と呼ぶべきではない。ただ表面を写した「キレイやなー」というだけの「イメージ映像」とするべき。そう、映画ではなく「イメージ映像」。だってここで見ることができるのは、ただのイメージでしかないから。


お次ぎはヴォーグアメリカの有名編集長アナ ウィンターに密着した「The September Issue」。
そうです、私もこういうチャラチャラしたものが結構好きなんです。見かけとは裏腹にかなりちゃんと作られている映画でした。上記の「オペラ座」と同じようにもちろんヴォーグの宣伝も兼ねていると言えるけれど、ヴォーグ内のドロドロしたところなんかも、全てではないけれど出ていて面白かった。ヴォーグとかそういうファッション界?的なところでで働いてる人たちってみんな美しくって洗練されてるのかと思いきや、全然違うんですね。みんな、私が心配になるほど汚い。肌も汚い、なんか髪も汚い、服だけ高そうやけどそれを着てる体が汚いから、なんかやたら汚い。これにはびっくりしたな。アナ ウィンターと同じ日にヴォーグに入社した編集者の愚痴とか文句とか意見とか闘いとかいろんな人間的なものと、アナ ウィンターの近寄りがたいけれど弱みを持ってるところとか、彼女はひどい人間のように言われるけれど、そんなところも認められるような映画。すごくあたたかい撮り方をしてる映画だと思う。面白くて楽しいです。で、ヴォーグの9月号を買ってみたくなる。

もうDVDが出てる。

お次は「la Vida Moca」。
エルサルバドルのギャングを追ったこのドキュメンタリー映画公開の数日後に、監督であるChristian Povedaが死体となって発見されたということで、一気に観客動員数が増えた映画(こう書くとすごくひどいな)。メンバーの平均寿命が30歳も満たない、若者がどんどん殺されていくマラ18というギャンググループの生活に密着したもの。とにかくみんな子供です。経験から何かを学んだり、考えたりする間もなくどんどん殺されていく。こんな風に書くとまるで彼らが被害者のようで、実際この映画では彼らが死体となる場面しか出てこなかったけれど、彼ら自身も同じだけ敵のギャングのメンバーを殺害してるということだろう。そんななかでもなんとか普通に働こうとするメンバーも多いが、すぐに警察の取り締まりが厳しいのでなかなか難しい。曖昧にしかわからなかったのは、警察の取り締まりはただの圧力をかけるためだけのものなのか、実際にこれらの若者が犯罪を犯しているのかが、はっきりしないところ。マラ18のメンバーにカメラが近すぎて、もちろん彼らもいろんな社会状況や貧困の被害者であるには違いないのだが、客観的な視点が欠けている。どちらにしてもこんなに密着できた監督Christian Povedaの働きは大きい。誰かが殺されると彼が一番に現場に辿り着いてるんじゃないかと思うほどだった。でも近ければ近いほど、すごく辛かっただろうと思う。



そして10月の心に残ったドキュメンタリー映画の最後を飾るのは「les lip」。数年前に映画館で公開されたときに行きたかったけれど逃してしまって、近所の図書館でDVDが借りれたのでやっと見た。3週間ほどの間に何度も何度も見た。彼らが成し遂げたことも本当にすごいし、それを無視してでもこれはドキュメンタリー映画として素晴らしい。
フランスでしか手に入らないかもしれないけれど、そのチャンスがある人は絶対見てほしい。私の今まで見たドキュメンタリー映画の中で三本の指には絶対入る。



というわけで、まるで備忘録じゃないな。リストもありますよ。
03/02 21:20 | 備忘録 | CM:0 | TB:0
Monumenta/モニュメンタ 2010 Christian Boltanski/クリスチャン ボルタンスキー「Personnes」 @ Grand Palais/グラン パレ
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今年で三度目を迎えるMonumenta 2010が終了した。アンゼルム キーファー、リチャード セラに続き、グランパレの身廊を独り占めできるという栄光と恐怖を味わうチャンスを与えられたのはクリスチャン ボルタンスキー。三人目にして初のフランス人アーティストだ。

アンゼルム キーファーは彼の平面作品を展示するために、いくつかの小屋をグランパレのガラス張り天井の下に建設し、各小屋の中に入るとそこはグランパレとは関係のない空気をもつ空間となっていた。リチャード セラは彼特有の巨大彫刻で、グランパレの縦辺を利用したインスタレーションを展開し、そして今回のボルタンスキーはそれとは逆にグランパレ身廊の横辺を利用した作品を見せた。

ボルタンスキー本人も言うように、リチャード セラ以上にグランパレの空間を巧みに使うことは不可能であろう。なぜならセラはグランパレの「虚空/空白」を見せることに成功したから。自身の作品をこの空間に置くことによって、空間を創りだす建築を見せるのではなく、空間を創りだす「虚空の空間」を見せる。それはまさにリチャードセラのモニュメンタを見たときに私が受けた衝撃であり、一般ビジターには「見るものがない」と不評だった理由なのかもしれない。モニュメンタというこのイベントが創立されたときから2010年には自分の出番だと知っていたボルタンスキーだけに、この空間をどう扱うかと思考する時間は長いが、その分他の二人に持って行かれてしまう部分もある。セラのモニュメンタを見たボルタンスキーは考える。どうしようか。これ以上のものはできない。セラは作品を展示しながらも作品自体ではなく、その周りの空気と光だけの虚空を見せた。何も展示せずに虚空を見せるのはただの逃げでしかない。何かを展示しなければいけない。空間をどう使うか。そのような思考の後にたどり着いたのが、グランパレの横面を利用することだったのだろう。グランパレと言えば圧巻のガラス張り天井とそれらを支えるアールヌーボー様式の柱を思い浮かべる。そんな私たちにボルタンスキーはその敷地面積の広大さと長く太く伸びる床を思い出させる。

「Personnes」と名付けられたこのメガ展覧会は、ボルタンスキー自身が常に心がけている「ビジターは作品の「前」に立つのではない。作品の「中」に立つのだ。」という概念で言い換えるとメガインスタレーションとも呼べる。グランパレの入り口を通ると立ちはだかる古びたアルミ缶の壁、そして床いっぱいに貨物列車のワゴンを喚起させる大きさと形に敷き詰められた衣服とそれらを照らすネオンとの心臓の音で構成される作品、アルミ缶の壁と対立するように山状に積み上げられた衣服と数枚のそれらの衣服をつかみ、持ち上げ、放つクレーン、と大きく三点の作品の展示とも言えるが、全てはひとつのインスタレーションのように呼応する。

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ボルタンスキーがホロコーストに関する作品を発表してきたことをもう頭から払うことができない私などは、やはりこのアルミ缶の壁の前に立つとそれが嘆きの壁のように思えてしまう。また床に均一に隙間なく敷き詰められた衣服は、貨物列車にぎゅうぎゅうに押し込められて強制収容所へと運ばれたユダヤ人たち一人一人を思い起こさせ、世界中で行われるボルタンスキーの個展で集められた心臓の音が重なり合うとまるで列車の規則的な轟音にも聞こえて来る。
グランパレの奥に鎮座する巨大な衣服の山の頂上に降りて来るクレーンの手は、神の手を思い起こさせ、その神の手によって選ばれし衣服を見ているとシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの皮だけになった自画像見ているような錯覚をおこさせる。さすがにこの「最後の審判」へのイメージは飛躍しすぎかと思ったが、ボルタンスキーのインタビューを見ると、彼自身も「最後の審判」に言及していた。私が持った「死」というものへの感覚はこの展覧会のタイトルである「Personnes」からもきているはずだ。Personnesとはフランス語で「人々(「人」の複数形)」という意味だが、これを発音するとPersonne/ペルソヌとなり、もちろん「人」と訳せるわけであるが、フランス語で一般的に「ペルソヌ」とだけ言うと「誰もいない」という意味になるのだ。その二重のタイトルには生も死も、存在も不存在もあるのに、なぜか「死」や「そこにいないということ」に思いが行ってしまうのは私だけだろうか。

これは今の私が思うことであるので、例えばそれが現代アートに関して、またボルタンスキーに関して一切の知識がなかった日本在住のころの10年前の私がこの展示を見たら、ホロコーストのことなんか少しも頭をよぎらなかったのかもしれない。しかしきっと目線の高さに設置されたネオンや衣服の山は私に「死」を、しかも大人数の人間の死を思い起こさせたであろう。


今回のモニュメンタは二つの顔を持つ展覧会でもあった。その二つの顔というのは昼と夜のそれだ。私も一度目は昼間に行き、そのときに「この展示を夜に見る必要がある。」と強く感じた。なぜならその目線に設置されているネオンの低さと、ボルタンスキー自身が主張した照明の排除の理由を知りたかったし、体験したかったからだ。そのことをモニュメンタに行った友人たちと話すと、皆が口を揃えて「絶対に夜に行くべき。絶対に夜のほうがいいから。」と言う。だから最終日の夜にも行ってみた。結果。私は友人全員に反対されても、「昼のほうが絶対に良い。」と主張したい。夜の展示では予想通り、ネオンだけが冷たく煌々と床を照らしていた。それがもちろん美しいわけだが、そのネオンの明かりによって、グランパレの床の奥深さが途切れてしまっていた。私が話した案内の女の子は必死になって「でもそれがこの衣服の床が無限に広がっているように見せる効果を出している。」と言っていたがそうだろうか。私には納得できない。夜の展示はまさに「美しい」、でもそれがボルタンスキーのこの作品に必要だろうか。夜の展示は私にとってただスペクタキュラーなだけだった。最初に見に行ったのが昼であったからその印象がより強く残っているのだと言われればそれまでだが、私には昼のほうがこの巨大インスタレーションの生々しさや冷たい静けさ、そしてそのなかにある強い躍動をより感じることができた。また、ボルタンスキーが、毎年春に開催されるはずのモニュメンタを敢えて寒い真冬の2月に変更させたこと、一切の暖房機器の設置を拒否したことなどを考えると、この展示の「冷たさ」は非常に重要である。天井を覆うパリの、すっきりとはしているけれど灰色の空と空気、そして一歩この空間から出れば世界中がそぞろ歩きを夢見るシャンゼリゼ通りやセーヌ河岸がすぐそこにあるのだという現実、数えきれない体を想起させる衣服たちとそこからたちのぼる匂い、ドクドクと覆いかぶさってくる誰かの心臓の音などが全て重なり合って私にめまいをおこさせた。

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ボルタンスキーの作品を語るとき、「ユダヤ」「ホロコースト」「大虐殺」「死」など以外に多く出てくるのは「記憶」というキーワードだ。この「記憶」は彼が学校をドロップアウトして家で一人でこそこそと作品なのか何なのかわからずにただ「何か」を作り集めていた頃からずっと彼にまとわりついている。ここで私がひとつ書いておきたいのは彼の作品には「記憶」だけではなく「記録」というキーワードも重要だということだ。「ポートレート」シリーズや「ルーブルの人たち」にも見られるように、「記録をする」という行為とその「記録」自体に大きな比重がかかっていると思う。それは彼が数年前から続けているビジターの心臓の音を録音するというアクト(これらの心臓のCDは全て瀬戸内海の島に埋められる。ベネッセの福武さんからの一島丸ごとプレゼント)からも明確なように、心臓=心の持ち主である一人一人の思い出という記憶ではなく、その心臓=心そのものの音をただ機械的に記録する。そこには何も足さない何も引かない。そこにはヒエラルキーもないし年齢もないし国籍もないし始まりも終わりもない。私はこのような彼の作品がすごく好きだ。それは彼のインタビューにも表れていると思う。このモニュメンタのキュレーターでもあるカトリーヌ グルニエとのインタビュー本(本当に面白いので読んでほしい。)でも、彼はグルニエの起こした文章に一切手を加えないどころか、一度も目を通さなかったということだ。またモニュメンタ開催時にフランスの新聞「La Liberation」紙の記者がインタビューのためにボルタンスキーのアトリエにやってくると、アーティストはウイスキーを一本、二人の前に置いて、「インタビューはこのウィスキーを飲みながらだ。そして今から君が言うことも僕が言うこともすべて、どんな内容でも新聞に載せる。」と宣言し、実際にそのような何枚にもわたる酔っぱらい二人のインタビュー記事が有名全国紙に掲載された。このような言動を聞けば、それらのインタビュー全てが彼の作品であるとも言える。何の手も加えないただ単に「記録」として存在するのだ。


3月終わりまでパリ郊外のMAC/VALでもボルタンスキーの個展が同時開催されている。そちらも楽しみ。


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えらく長くなってしまいましたが、おまけ。
最終日の夜にもう一度この展覧会を見に行ったわけですが、ゆっくり空間に浸りながらふと横を見るとクリスチャン ボルタンスキー本人が同じように頭をあげてクレーンの動きを見ていました。ヴェルニサージュやなんやでこのアーティストを見ることは多いのでなんのレア感もなく「最後見納めに来たはるんやな」とだけ思っていたわけですが、彼に近づく男と女。「誰やろう?コレクターとか?ジャーナリスト?」などと思いながらよく見ると、なんと女性のほうは彼の長年の恋人アネット メッサジェーでした。「おお!アネットと一緒に来てる!」と、まるで一般ビジターのように作品も前に立ってアネットにデジカメで写真を撮ってもらうボルタンスキー。なんかええなあ、普通やなあ、と思いながら夫と「ほんじゃあれは誰やろ?」「誰やろなあ。」「あれちゃうか、もうアネットやし、家族つながりでリュックちゃうか!」「リュックやったら笑けるな!!」などとテキトーなことをテキトーに言っていて、家に帰ってからネットで調べると、ほんまにボルタンスキーのお兄さんで著名な社会学者のリュック ボルタンスキーやった!ほんまに家族連れできてたんかー。素敵。
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おすすめの本がたくさん。
もちろん日本語版のインタビュー本。



左から、
ーカトリーヌ グルニエによるボルタンスキーのインタビュー本。「クリスチャン ボルタンスキーの人生」
英語版。
ーインタビューの天才、ハンス ウルリッヒ オブリストによるボルタンスキーのインタビュー本。
ー最初の一歩的マニュアル本としていつも欠かせないのはファイドンのアーティスト本。
ーフラマリオンのこのシリーズも装丁とかがいつも凝ってて好き。




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