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Sidi Larbi Cherkaoui 「Myth」


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22年もの間ディレクターとして君臨しているGerard Violletteが引退し、その席を2008年6月から、37歳の若手演出家Emmanuel Demarcy-Motaに譲るというニュースが発表された9月25日の世界屈指のコンテンポラリーダンスの殿堂、パリ市立劇場。この日、そのニュースと共に期待を持って2007ー2008年度ダンスプログラムの幕開けに選ばれたのは、Sidi Larbi Cherkaoui の最新作である「Myth」。
これがGerard Violletteによるプログラム最後の年かーと感慨にふけりながら、「Myth」を見てきました。

sidi-larbi-cherkaoui-myth.jpg

Sidi Larbi Cherkaouiは30歳のベルギー人コレグラファー。アラブ人の父親とベルギー人の母親を持つアントワープ生まれ。ベルギー人でなければアラブ人でもない、ベルギー人のような顔をしたアラブ人の名を持つ子として育ちます。
ピナ バウシュや、「Les Ballets C. de la B.」で共にクリエーションを行ったアラン プラテルなどの、80年代から頭角を表してきたコレグラファーの影響を強く受けています。しかし彼のインタビューによれば、ピナ バウシュがダンスに演劇という概念を足したように、彼はダンスに生演奏の音楽を付け加え、アラン プラテルが個々に重きを置くダンスを深く研究しているのに対して、彼は人間と人間の関係、二つの個体が創りだす調和に重きを置くのです。

私が彼に出会った最初の作品はアクラム カーンとのコラボで発表したZero Degree。このブログにもアホみたいに感情にまかせて感動しまくった!という記事を書きました。(ブログ内検索で探してみてください。)

さて私にとっても2007ー2008年度初のコンテンポラリーダンス鑑賞を飾ったこの作品。
実は普段の私なら絶対にしないことをしてしまいました。
それは作品を観る前に批評を読んでしまったということ。展覧会でも映画でもダンスでも演劇でもパフォーマンスでも、紹介文は読んでも批評は鑑賞前に絶対読まないという鉄則を自分に押し付けている私なんですが、今回は何故か、何も考えずに眼を通してしまったのがル モンド。

ル モンド紙の評価ではかなりの酷評であったこの作品。読んでしまったいろんなことは忘れて、ニュートラルでいなきゃ!と思いながら、とにかくこの作品のテーマであるらしい「トラウマ」ということだけ頭に置くようにして、挑んできました。


で、実際観てどうだったかというと、ワタクシ個人的にはこういう類のコンテンポラリーダンスはまーーったく好きではありません。
私は現代アートでもダンスでもコンセプトがどうとか前衛的なのがどうとかいうことよりも、ただただ造形的で神秘的な美しさを求めるタチなので、そういう意味ではやっぱり今では大御所と呼ばれるコレグラファーの創り出す世界が好きなのです。悪い言い方をしてしまえば、ごちゃまぜの何でもアリのような舞台は好きではありません。別に見ますけど。たとえばJan Lauwersの世界とかね。


しかしたかが私個人の好き嫌いや、たまたま目に入ったジャーナリストたちの意見だけでは、ダンスを語るにはあまりにも安易すぎないか!という点を、2007-2008年度のダンス鑑賞の中心に置いていこうと思い立ったので、いろいろ書いてみます。そのうえ、私が好きであろうとなかろうと、ル モンドの記者がどう書いてようと、この作品の質はやはりかなり高いものであったし、これは誰でもが創れるものではないと、違った意味での感動をしたからです。


舞台は両サイドにアラベスク風のすかし模様の入った壁が設置され、奥には重厚な本にうめつくされた本棚と天井まで届く巨大な開くことのない扉。

コンテンポラリーダンスの公演で私が出会う舞台設定といえば、舞台という限られた高さと幅と奥行きのある空間であるにもかかわらず、公演が始まると、そのような限られた空間を越えて、まるで、どこまでも続くかのように思われる別の異空間に飛び込むような感覚を得ることが多いのです。そういう感覚に何も考えずに身を任せられるということは、また、作品自体にぐんぐんひきこまれていく自分を感じ、私としては至上の喜びを感じる瞬間でもあるわけです。

しかしこの作品では、舞台の幕が開いた瞬間、「閉ざされている。」と思ったのでした。開かない扉は、何の説明もないのに「あれは開かないんだ。」と瞬時に感じていました。

そのような舞台設定と、7人のミュージシャンと14人のダンサーによって、作品は構成されているわけですが、ダンサーによって表現される登場人物たちは、多種多様。花嫁。おばちゃん。女装したゲイ。兵士。カトリック教徒の冴えない娘。
しかしみな一様に、何かに恐れているのです。
そして黒い衣装を身にまとった獣のように動くダンサーたち。
彼らは獣であるのに、まるで登場人物の影、または奥深い部分を体現するかのようにつきまとい、時にはおおいつくしてしまいます。

そのような中で舞台は進むのですが、まず最初の本棚から本が登場人物たちの頭にふってくるシーン。
本棚が人間の培ってきた知識や歴史を記し、残している「本」の宝庫であると考えるならば、この本が頭にふってくるという状態は、現在の私たちがえらそうに上にのっかっている知識や歴史というものが人間の頭に落ちてきて逆に私たちを滅ぼすと捉えられるのではないか。その痛さや恐ろしさを最初のシーンに設定することによって、この作品が「トラウマ」と「人間」と「その歴史」などのテーマを持っていくんではないかと、私の頭によぎりました。

作品が進んで行くにつれ、私が感じたのは、
「人間の歴史というものは一種の「トラウマ」というものから成り立っているのではないか。」
ということ。

どのような宗教や環境の中にいようと、人間という「民族」の意識に、いやそれこそ大げさに言ってしまうとDNAに長い歴史の中で組み込まれてしまった「トラウマ」

そのようなトラウマはいつも宗教というものを生み出し、人間を支配していくのかもしれない。どの宗教でも存在する「神」というものも結局は人間が創りだしたものでしかないのだ。

後半のシーンでとても強く印象に残った部分がありました。
それは、それまで黒い衣装を着ていた男女のダンサー一組が肌色に近い衣装になり、男性ダンサーが、死体と化した女性ダンサーを死んだことが信じられず、なんとか動かそうと動物のように踊るシーン。それはまさに愛する者の死を前に、死という概念を受け入れ、あきらめ、しかしそのどうしようもない感情がトラウマというものに変化していく過程であるかのよう。そして彼女を動かそう、生き返らせようとするのをあきらめたとき、知識の宝庫である本棚の辺りから、長い長い裾をひきずった別のダンサーが死体となっている彼女の衣装を縫いはじめるのです。
そのとき私は「ああ、これで傷を封印することができる。新しいところへ進める。」と安堵感のようなものに包まれたにも関わらず、作品中、ずーーーーーーーーーっと本を読みふけっていたある男性ダンサーが、大量の重たそうな本をふらふらになって転びそうになりながらも、必死で運んでいるのです。「そんなもの捨てて!やっと解放されるのに!トラウマじゃ先に進めないのに!」と私が心で叫んでも、彼はそれらの本を運び終わることに成功してしまいます。結局世の中っていうのはそういうことの繰り返しなのかもしれません。どこかで良い方向に何かが運んでも、また別の場所では別のことが同じ状態で停滞していたりするのです。

最後の最後、もうどうしようもなくなって何もかもがただの繰り返しになったとき、開かないはずの扉からノックの音が聞こえます。そこで入ってきた男性は2本の長い棒を背中に抱え、それらをまるで十字架のようにクロスさせながら踊ります。それはまさに十字架を背負ってゴルゴダの山へ登って行くキリストの姿。彼のダンスに魅せられて、彼に抱きついていく他のダンサーたち。まるで自分の中に彼を取り込むことが一番の命題であるかのように。
しかし彼は自分に懇願の眼でまとわりついてくる人間たちを引き離し、扉の向こうに押しやり、扉を閉めてしまうのです。

ここで私は「うへー。これ嫌い。」と一瞬思ったんですが、ふとそんな風に思うのは、彼がキリストであるという点でこの作品を見、まるで救世主のようにヒーローぶった行為に出る彼に嫌気がさすのであって、例えばまた別の捉え方をして、彼がただの「救世主的存在」であり、彼が実際にそうであろうとなかろうと、そういう存在にすがりつく人間たちと考えた場合、また、ずっと作品中感じていた「歴史というものは人間が創るものであり、それはトラウマと共に消えることがなく繰り返される。」ということをうまく表しているのかもしれないと、思い返しました。

なんだか気がついてみればやけに長々と書いてしまった、、、。
好きじゃなかったんやけど、こんなにだらだらと書いちゃって、、、。

次もSidi Larbi Cherkaouiの作品を観るかな。どうかな。まだわかりません。

そんなこんなで好きじゃないといいながら結構楽しんだみたいですね。私。

ひとつ書き足したいこと。それはダンサーの質の違い。ピナ バウシュやローザスやフォーサイスの大御所の率いるカンパニーのダンサーはやっぱり本当にすごいと思います。これらのコレグラファーも天才!なんて世界中で言われていても、毎年もう何十年も創りつづけていれば、もちろん駄作だってある。でもそんな「あ、ちょっと今年微妙?」なんて私のような小娘(そこまで若くないですけど)がえらそうに思ったって、抱えているダンサーたちの魅力やテクニックや表現や身体やジェスチャアの美しさで、「あー、やっぱ美しい!これが観れたからちょっとくらい作品自体は微妙でも目をつぶります!」っていう部分がひっじょーに大きいのです。実は。


あまりきれいにまとまっていないけど、いっぱい書いたのでクリックお願いします。
ここまで読んでくれた人どうもありがとう。


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10/01 23:20 | コンテンポラリーダンス | CM:0 | TB:0
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