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「Hunger/ハンガー」 Steve McQueen/スティーヴ マックイーン
昨日がんばって書いた長文のブログが消えました。ブログの調子が悪く、消えそうやなーと思ったのでワードにもコピーしたのにその文書を保存せずにいて、ワードが止まってしまい強制終了するはめに。済んでしまったことをわーわー言ってもしょうがない。気を取り直してもっかい書きます。


イギリス人現代アーティスト、Steve McQueen/スティーヴ マックイーンが初めて製作した映画、「Hunger/ハンガー」 を見に行きました。
この映画は、マックイーンの最初の映画にして、今年のカンヌ映画祭のCamera d'Or/カメラドールを授与しました。
現代アートの世界にいる私の周りでこの映画の話をするのは普通だけれど、それ以外の映画ファンの間でもかなり話題になっていたこの映画。
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北アイルランドの独立のために闘うIRAのメンバーが、刑務所での政治犯としての扱いを求めるために行った、衛生を無視したストライキ(自分の便尿を部屋の壁に塗り付けたり、食べ物をわざと室内で腐らせたり、入浴を拒んだりすることです)と、それに続いて1981年に決行され、10人の死者を出したハンガーストライキを扱った映画です。

この映画の一番の見所はずばり映像でしょう。息が止まるほど、というとおおげさですが、全てのシーンがとてつもなく美しい。刑務所員が朝ご飯を食べているときに膝に置いたナプキンの上に落ちるパンくず。刑務所の外壁にもたれタバコを吸っている所員の黒いズボンをバックにはらはらと降る粉雪。便尿で壁に描かれた円を圧力の強いホースで洗うときにあらわれる真っ白の壁。収容者たちが一斉に廊下に向かって流す尿が合わさって大きくなる流れ。機動隊員の列に投げ出される収容者の裸がこん棒でめった打ちにされ赤く染まっていく皮膚。ハンガーストライキで死を迎える直前のやせ細った膿だらけの体。全てが美しい。

しかしそれらの美しさがこの映画を薄っぺらくしていると言えるかもしれません。奥深さがないのです。映画を見た後そこから拡がっていくものがない。

この映画で扱われている話は非常に重い歴史の一部ですが、それがここでは「ある出来事」としてしか見ることができません。それは登場人物たちの描き方にあると思います。実際に起こったことを元に映画が成り立っているので、人物像が最も人間らしく描かれてしかるべきなのに、それがない。もちろん、「ここで人間味を出したかったんだろうな。」というシーンはあります。でもそれがステレオタイプな「人間味」、「彼らも私たちと同じなんだ。」と観客に思わせたいのがバレバレの型にはまった描き方でしかない。
例えば、刑務所では収容者たちを血まみれになるまで殴る所員も、家があり、妻の作る朝ご飯を食べ、車に乗って出勤する(車に乗る前に爆弾が仕掛けられていないかチェックする作業なんかはありますが)。休日には、普段殴っているその手で花束を持ち、老人ホームにいる母親を見舞う。わかりやすすぎる「人間味」。刑務所に収容者たちの家族が訪問に来るシーンでは、この機会をいかにうまく利用して看守の目の届かないところで情報伝達を行うか、ということを見せるのに徹してしまっているし、収容者の一人が同室で寝ているメンバーが起きないかどきどきしながらマスターベーションをしたり。ずーっと、24時間すっぽんぽんの裸でいる上に、お互いのうんちとかおしっことかぐちゃぐちゃ混ぜて壁に毎日なすり付けてるのに、マスターベーションしてることはそんなにばれたくないんや、、、なわけないやろーーー!!「政治活動のためにこんなぎりぎりの生き方している収容者でもマスターベーションもする。普通の人間なんだよ!」みたいなシーンなんですけど、これもステレオタイプすぎて引きました。


映画は大きく3つの章にわけることができます。第一章はIRAメンバーたちが刑務所でする衛生無視の行動に焦点があてられ、第二章はボビー サンズがカトリック司祭にハンガーストライキをこれから行うという旨を伝える二人の長い長い会話。そして第三章はハンガーストライキを最初に始めたボビー サンズが死に至るまでが描かれています。
第一章と第三章の映像のコントラストが非常に強く、衛生無視のストライキの章ではうんちやおしっこや腐敗物まみれの体と壁によって画面が占められているので全体に茶色く、刑務所員や機動隊員の殴る蹴るの暴力、それに対して全力で抵抗する収容者たち、情報伝達のための工夫など、動の章ですが、ハンガーストライキにはいったボビー サンズを映す章では清潔で殺風景な病室の白を画面が支配し、できるだけ体を動かさないようにするボビーと彼をサポートする看護士などの静の章となります。この画面上のコントラストが激しいからこそ、どちらも同じように非常に暴力的であることも浮き上がってきます。静の章の暴力性は動の章を上回っているかもしれません。
これらふたつの章をつなぐボビーと司祭の会話の章は、切れ目無しの長い長い二人のやりとりで構成されています。この映画全体でのセリフはこの会話に集中しており、他の章での会話はほぼ皆無です。だからここでふたりが話し合うことは非常に大切なメッセージとなるわけですが、この会話があまりにも「あー、ボビーをキリストにする方向?」というのがアリアリと出過ぎていて、少し萎えます。
なんというか、映画というものの持つ巧妙さがないんです。

何度も言いたい、何度言っても足りないくらい、本当に映像が美しい映画です。しかーーーし!映画はそれだけじゃないはず。映画って暗い映画館の中で座席に座って大きなスクリーンを眺めて見るものですが、それだけじゃない。映画ってそのスクリーンから風や空気や手触りや匂いが溢れ出てくるもんだと思うんです。でもこの映画はただその平面の上で「出来事」が綴られるだけ。うんちやおしっこで塗り固められた刑務所の壁も、洗うことを拒否した体も、ハエや蛆のたかる腐敗物も、すべて無臭。雪が降り込む部屋も寒くない。真っ白の病室も冷たくない。タバコの味もしない。

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先ほど書いた人間的でない登場人物たちと、匂いがしてこない画面の映像は、すべてこの映画が「平面作品」である、でしかない、ということにつながっています。
機動隊員にこん棒で殴られる体も美しい。便尿、腐敗物にまみれた体も美しい。ハンガーストライキでやせ細って膿だらけの体も美しい。すべてが「美術館で見る「キリスト笞刑」の絵画」のようです。「美術館で見る」っていうところ大切です。現実のコンテクストから離されてしまったイメージがそこにはあるからです。
マックイーンは「サンズを英雄化するつもりはない。」みたいなことをそこらじゅうで言ってるけど、英雄化というよりキリスト化はめっちゃしてます。っていうかなってます。まあでも映像に重きを置いた映画作りみたいなものは彼のインタビュー記事などを多く読めば読むほど、彼自身が望んだことなのか、と思うのでまあいいんでしょう。

私が好きだったのは、IRAメンバーや看守たちの中心的人物ではなく、彼らを取り巻く人々の描き方でした。
看守の朝ご飯を用意して出勤していく姿を心配そうに見る妻。
ボビー サンズの面会に来ては「元気そうね。」と心とは正反対のことを口にする両親。
収容者たちをこん棒で殴る機動隊員の横で何をすることもできずただ涙を流す若者(この描写の仕方も言いたい。他の隊員がリンチをしているところとは壁で仕切られたところでこの若い機動隊員はヘルメットを取って号泣します。この場面もめちゃくちゃ美しいんですが、あれって彼の心の中じゃないかなって思うんです。本当はみんなと一緒になってリンチをしているんやけど、心の中の描写があの仕切られた壁の反対側で見えていた彼じゃないかな、と。でもそれは「悲しい」とかそういう類いの涙じゃなくて一種の興奮状態にあるときの涙で、別に彼があのときあの場所で起こっていることに疑問を持っているわけではないと思います。こういうときに自分の中でわき起こる疑問ってきっとその瞬間ではなく、あとから発生するものだと思うからです。括弧の中が長くてすいません。)
ハンガーストライキをしているボビー サンズを介護する看護士。

みんなたまたまそのときその場にいて、起こっていることに対して意見を言わず、行動を起こさず、それぞれの役割を戸惑いながら果たす、ということしかできない。「人間ってこうよな。」と思います。そのへんはすごく現実を感じました。

とにかく、映像に凝りたかったってのはわかるけど、「で、こういうの全部やって結局何を描きたかったの?」っていう?は残りまくりです。最後の章のボビー サンズが30分くらいかけて死んでいくんですが、「で?」。30分もとって死んでいくシーンを見せる必要がどこにあるんやろう?(まあその間の映像の力を見せたかったっていう理由くらいしか思いつきません。)頭が朦朧としながら子供の頃の幻想とか見ちゃったりして、それも「で?」。


なんかもうどんどん長くなってしまうそうなので、まとめます。

この映画に関して一言でまとめるなら、ズバリ、「これは映画監督の映画ではなく、映像作家の映画だ。」でしょう。この一文ですべてが入ってます。実際マックイーン自身も「私は映画を作っていない。芸術作品を作っているのだ。」と言ってますし。

こんなことを書くと、まるでこの映画が全然良くないだとか、私が全然この映画を好きじゃなかったかのように思われるかもしれませんが、ごちゃごちゃ言える映画ほど興味深いもんはないわけですから、この映画に対する印象が私の中でこれからどんな風に変化していくのかが楽しみです。

是非一度機会があれば見てみてください。

この映画の公開と同時に、パリのマリアン グッドマン ギャラリーでスティーヴ マックイーンの個展が開かれていました。先週の土曜日までだったので、土曜日の閉廊間際18時ころに行こうと用意してたのに!のに!のに!のに!17時ころに配偶者の家族が家になだれ込んできて、お酒やおつまみ出してたら終了してしまいました、、、、、。一生恨みそうです。


このサイトの右下のHungerの文字のUをクリックすると小さいヴィデオが見れるようになってます。


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12/02 02:45 | 映画 | CM:2 | TB:0
長かったですね、 でも、長さの中に揺れ動く気持ちが籠もっているから、読んでいるときは長いとは感じませんでしたが。
つい最近、同じような気持ちになった展示があったので、コメントを書かせてもらいます。
目黒区民美術館での石内都の展示のうち、「ひろしま」の部分でした(パリ・フォトでもその一部は展示されていたはずですが)。美しさへと昇華されていくときに、後に残すべき何かも一緒に消し去ってしまう。美しさ故に悲しさがといったことばは、気持ちが悪く思いますので。美とかに棚上げすべきことではないはずなのにと、思ってしまいました。(石内都の「ひろしま」が、それほど美しかったのかと問われれば、そうではなく、美しさを求めるべき価値として作品化が行われているといったことですが。)日本の戦後写真のなかでのヒロシマという主題について、時間の経過の中での忘却の過程が、そこに刻されていることは確かでしょう。
それから、映像作家という区分けにすこし差別的ではと思いました。映像作家の端くれの写真家として、気になりましたが、、、ひがみかな。
谷口雅さん、こんにちは。
うーん、作品を「美しさ」を追求してつくるか、何か別のものを追求して作った結果「美しさ」が出てくるのか、っていう違いですか?なんかよく理解できているかわかりません。現代アートにおいては後者であるときのほうが感動しますが、ギリシャ、ローマ時代の彫刻、ルネッサンスの絵画なんかを見てると「究極の美」の追求そのものですよね。「ひろしま」シリーズの作品は2、3点しか見ていないし、それもフェアで見たので、「あ、これか。」としか思いませんでしたが、是非展覧会で見てみたいですね。
あと、映像作家が映画監督より下とは思っていませんよ。映画監督の作る映画で最悪なのいっぱいありますし(世の中の90パーセントの映画がそうです)、映像作家の作る映画と映画監督の作る映画では、そこにあるいくつかのエレメントの構成が違う、と言いたかったのです。たとえばミッシェル ゴンドリーはいくつも映画を作っていますが、私にとって彼は映画監督ではありません。でも彼の作る、私が「映像作家の映画」と呼ぶ映画は公開される度に結構ちゃんと見に行ってます。同じ視点では見れないものだと思うんですよね。
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