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ベジャールのボレロかギエムのボレロか。
ある平日の夜、7月だというのにジャケットが必要なくらい肌寒い空気のなか、わざわざヴェルサイユまで行ってきた。なぜなら何年か前からずっと見たいと思っていたバレエの公演があったからだ。
それはボレロ。

ベジャールのボレロに出会ったのは、私が中学生の頃だった。家にいるときはいつも、WOWOWという衛星放送のチャンネルで、新しいのも古いのもとにかく映画を見まくっていた。そのなかに「愛と哀しみのボレロ」があった。邦題はセンスがないとよく言うけれど、私はいかにも80年代っぽい大げさな邦題がいまだに好きだ。特にこの「愛と哀しみのボレロ」。タイトルだけでしびれる。しかしその頃の私はタイトルにしびれていたわけではない。この映画が WOWOWで放映されるたびに見ていたのは、最後のダンスシーンを見るためだった。そのことに今気づいた。タイトル同様ものすごく劇的な内容の映画なのだが、あんなにも何度も見たのに他のシーンは一切記憶にない。
あの頃はボレロという音楽は知っていたが、ベジャールのべの字も知らなかったし、それこそバレエに関しても、その「バレエ」という単語しか知らなかった。

そしてパリに来て、何年か前にバスティーユのオペラでボレロが上演されるというので見に行った。「あ、あの映画で見てたダンス。」と気づき、とにかく感動しまくった。観客の集中と緊張をあんなに感じた公演は、そのころの私はまだあまり体験したことがなかった。そのときのボレロは、たしかパリオペラ座の劇団によって上演された。中心の赤いテーブルの上で踊ったのは女性だった。彼女には私が映画で釘付けだったあの男性ダンサーの持つ吸引力はなかった。

そして今回。その何年か前の公演のときから今までの間に、私もダンス公演にしょっちゅう足を運ぶようになり、シルヴィーギエムのダンスも見ていた。インターネットでどこかの誰かが、「シルヴィーギエムの踊るボレロは、「ベジャールのボレロ」ではなくなり、「ギエムのボレロ」になる。」と書いていた。その一文が心に残って、「私もいつか。」と思っていたところに今回の公演があった。私は「ギエムのボレロ」を見に行った。

音楽にまったく興味のない私だが、ラヴェルのボレロはよく聞く。この音楽はもう何時間でも聞いていられるくらい好きなのだ。楽曲としてボレロを語ることは知識も耳もないので不可能だが、これだけは言える。私がなぜボレロを好きなのか。物事には常に「終わり」があって、楽しいこともうれしいことも辛いことも悲しいことも確実に終わるときはくる。素晴らしいものを前にして感動しているとき、「このままずっと終わってほしくない。このままずっとここにいたい。」と思うけれど、ボレロだけは違う。ずっと終わってほしくないと思っている反面、終わりのあまりにも強烈な素晴らしさも知ってしまっているので、「終わりはもっとすごい。」と終わるのを待ってしまうという矛盾が自分の中でできてしまうのだ。それはベジャールのボレロでも同じだ。「このまま踊り続けてほしい。」と思っているのに、「終わりに近づいてきた。」と毎秒毎秒興奮が高まっていくのを抑えられない。
私が音楽でもダンスでもボレロを愛してやまないのは、その矛盾する期待と高揚感と集中と緊張が私の中で渦を巻いて爆発しそうになる。

シルヴィーギエムはいつも三つ編みにしている赤毛をほどいてボレロを踊る。いつもなら気に食わない彼女の長過ぎる腕や足、細くてしなやかすぎる体も、すぐにヒラヒラとしてしまう動きも、ボレロでは、私が今までに一度も見たことのない別の演目を演じているように見える効果を持っていた。東京バレエ団の男性ダンサーたちとの公演であったので、彼女の長身とダンサーたちの比較的小柄な体格が、素晴らしい対比を見せ、また彼女の赤毛とダンサーの一様に黒い髪の毛が、赤いテーブルと椅子、そして真っ黒のステージに合わさって、非常に美しかった。

ベジャールのボレロはギエムのボレロになっていた。後半に進むにつれて、ギエムの高揚がステージから溢れ出していた。そしてもうそのときには舞台をしきっているのは、ベジャールではなく、ギエムだった。「あ、これか。ギエムのボレロは。」と自然にギエムのボレロになる瞬間を感じた。「ボレロはこんな風にも存在できる。」と思った。

寒くて寒くて震えていたのに、ボレロを観ている間はそれを感じなかった。


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なんか書き出したら真面目な感じで書いてしまったので、付け足しです。

写真がたくさん載っているブログを発見しましたので、リンクさせていただきます。
前編後編


ボレロの見所は、舞台の美しさ、中央のダンサーそして絶対に忘れてはならない、というか絶対に目がいってしまう素晴らしい周りの男性ダンサーたちです。彼らの腰のフリは素晴らしい。そして椅子に座っているダンサーたちが、たまに手を肩にやったり、上半身を触ったりする動きがあるんですが、それがもうたまらなく美しく官能的で、失神しそうになるくらいかっこいいのです。ただのおばちゃんだと思われてもけっこう。本当に美しいんですから。特に今回は東京バレエ団ということで、みなさん日本人男性でした。西洋人がこのダンスをするよりも日本人のほうが、まあ日本人の私だからからしれませんが、妙に生々しいというか、生の美しさが増すとでもいうのか、もう何倍も良かったと思います。

私は今のところ行くつもりはありませんが、来年はパリオペラ座でボレロが上演されます。
一生に一度は本物を観てほしいダンスです。



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07/05 01:38 | コンテンポラリーダンス | CM:4 | TB:0
Akram Khan&Sylvie Guillem 「Sacred Monsters」
ここ最近やったら忙しく、このブログの大切なネタである展覧会やギャラリーに行く暇も気力もありましぇん。フラフラですが、なんとかやってます。仕事の量が3倍くらいに増えた気がします。でも給料は3倍になってないのが問題。そんなわけでチケットを取っても見に行けないことが多いので、先月からコンテンポラリーダンスからも少しだけ遠ざかっていたんですが、今夜は前から楽しみにしていたアクラム カーンシルヴィー ギエムの「Sacred Monsters」を見に行ってきました。
私は何に関しても興味を持って深く追求するタイプの人間ではないし、だから何かのオタクにもなれないし、だから誰かのファンになることもありません。これは私の大きな欠点の一つであると自覚もしています。でもアクラム カーンは別。このブログでも今読み直すとちょっと恥ずかしいくらい大絶賛していた彼のダンスは本気で「これが好き!」と言えるし、彼のダンス姿ではなく、普通のポートレートを眺めてうっとりしたりすることがあるくらい好きです。かっこよすぎ。

世界中で大絶賛されているAkram Khan&Sylvie Guillemの「Sacred Monsters」。
sacredmonsters1.jpg


私はギエムの踊る姿を何度も見ているわけではありませんが、ここまで評価の高いダンサーであり、素晴らしい四肢を持つ彼女の場合、「ギエムにしか踊れないダンス」ってものが存在すると思います。私が今までに見た数少ない彼女のダンスでも、常に「うん、きれい。でもそれは振り付けがどうのこうのという問題ではなく、これは彼女のために創造されたダンスであって、彼女が踊るから美しいんやろな。」と背が低かったりちょっと小太りだったりするダンサーが存在できるという意味でもコンテンポラリーダンスが好きな私としては少し物足りないような感じがいつもするのです。

しかしアクラム カーンの創ったこの演目はそうじゃないように感じます。
ギエムが動くと、外にエネルギーを放出してブワーっと彼女の体からまき散らされる類いのダンスを踊るダンサーである、というその点ではギエムが踊る意味が非常にあったと思うけれど、この演目は他の女性ダンサーでも踊れる気がします。チンチクリンの私がえらそうなことを言ってしまえば、何度か「ああ!違う!彼女の手足が長過ぎる!」とまで思ったほど。私が去年見たアクラム カーンのSidi Larbi Cherkaouiとのコラボレーションでは、彼ら二人ともが体にエネルギーを内包して爆発し、それがはじけ合うという感覚を受けるダンスであったのとは反対に、ギエムの身体を中心に四方八方にブワーッと出て行くエネルギーをカーンがうまく受け止めて、バランスを取っているダンスであると感じました。
sacredmonsters2.jpg

それはSidi Larbi Cherkaouiとのコラボレーションが男性同士であったのに対して、今回は男性と女性という組み合わせがその感覚を助長させていたのかもしれません。

別の女性ダンサーと踊るこの演目はきっと考えられないことなんでしょうが、もしもいつか存在するのなら是非見てみたいと思いました。それでもやっぱりギエムの赤毛と肌の白さは、舞台の一部として必須だと思うので、そのときの女性ダンサーは是非髪の毛を赤く染めてほしいし、肌の真っ白な白人であってほしいと、思うのは私の中での矛盾ですな。この二つの点はアクラム カーンがいつも使うセリフや、音楽とミュージシャンや非常にミニマルな舞台設定や、なんとも言えない美しい色とカットのピタっとしたTシャツとスカートパンツなんかにとてもあっていて、そのうえこの演目で使用される真っ白の照明とで、もうたまらなく美しかったです。やっぱりスターってのはそういうのも合わせてスターなんですかね。

ダンスも舞台も音楽もセリフもいつも通り素晴らしかったんですが、すごくすごく素敵だったのが、ギエムがたまにとーーーーーっても楽しそうに、踊りながらニカッと笑うこと。彼女が笑うたんびに、私も客席でニカッて笑ってたと思います。本当にとてもとても楽しそうに踊っていて、こちらもとてもとても楽しくなりました。素晴らしいダンスを見たときは涙が流れたり、ワクワクしたりドキドキしたり、心地の良い緊張感に包まれたり、最高に幸せだと感じたりしますが、こんなに楽しくなったのは初めてでした。それもスターの持つ力かな。


そんなこんなの久しぶりの充実したコンテンポラリーダンス。
これから2ヶ月ほどは出張だらけでチケットを持っているのに行けないコンテンポラリーダンスの公演が5つもあるんです。くやしーなー。でも仕事も大切な吸収の場だし、もうちょっとがんばるか!

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04/16 05:46 | コンテンポラリーダンス | CM:2 | TB:0
Orphee et Eurydice/オルフェオとエウリディーチェ  Pina Bausch/ピナ バウシュ
先週にパリのオペラ座、オペラ ガルニエで、ピナ バウシュの「オルフェオとエウリディーチェ」を見てきました。
私にとってはピナ バウシュのオペラ初体験。オペラも遠い昔に見に行った記憶があるけれど、何の演目やったのかも何も覚えてないくらい、オペラに関しては知識ゼロです。
でもピナ バウシュが創ったオペラは単なるオペラではなくて、「ダンス オペラ」いわゆる「踊るオペラ」。まあ踊らなくて普通の歌って演ずるだけの一般的なオペラだっったら、コレグラファーであるピナ バウシュが出てくる必要は一切ないわけですから、この「ダンス オペラ」という新しい分野にも納得がいきます。それに元々、ピナ バウシュのダンスもなんで有名になったかと言ったら、それまでの「ダンス」としてしか存在していなかったダンスに、「タンツ テアター」いわゆる「踊る演劇」という、演劇とダンスをフュージョンさせた新しいダンスを提案したことに始まります。とにかくダンスと他の舞台演劇を混ぜることが好きなヒトなわけです。

ダンスだったら鑑賞前に批評や紹介文を読むことを自分に禁じている私ですが、今回はオペラということで、まあ歌舞伎でちゃんと前もって話のあらすじを理解して舞台鑑賞に挑むのと同じですから、めちゃくちゃ勉強していきました。美術史学科時代にお世話になったギリシャ神話の本をあるだけひっぱり出してきて、オルフェオについて復習。

ではギリシャ神話のオルフェオとエウリディーチェのお話についてちょっと書きます。
オルフェオは、ギリシャ神話の大半の登場人物のように神ではなかったけれど、歌と音楽に長けてるおかげで、みんなからほぼ神様扱いされている人間。その結婚相手がニンフであるエウリディーチェ。結婚してすぐに、かわいそうなことにエウリディーチェは蛇にかまれて死んでしまいます。悲しくてしょうがないオルフェオは、死の世界からエウリディーチェを取り返そうと思いつきます。オルフェオの奏でる歌と音楽は美しすぎて、誰も「NO」とは言えません。そんなわけで地獄の番人もエウリディーチェを生の世界に戻すことを承諾します。しかし条件が一つ。死の世界から生の世界まで戻る道すがら、絶対に彼女のことを見てはいけないし、どうして彼女を見てはいけないのかを説明してもいけない。その条件を満たさなかった場合、エウリディーチェはすぐさま再び死の世界へ連れ戻されます。エウリディーチェを連れて生の世界へ進むオルフェオ。その間、エウリディーチェは、わざわざ死を覚悟してまでも自分を死の世界まで迎えにきてくれた愛する夫オルフェオが、自分のことを見ようともしなければ、口をとざしていることに絶望し、再び死のうとします。それを感じたオルフェオは最後の最後、もうすぐそこが生の世界やのに!というところで、彼女のほうへ振り返り、抱きしめてしまうのです。その抱きしめた瞬間には、もう彼女は再び、死の世界に生きる者となってしまっているのです。

ピナ バウシュの「オルフェオとエウリディーチェ」は、1975年にオペラ ダンスとして創作されましたが、長い間踊られずにいました。1991年にピナバウシュがこの作品をもう一度生き返らせようと、当時のダンサーと共に息を吹き込みます。その結果、1993年2月にはピナバウシュのカンパニーによって公演が行われ、そして2005年5月にはパリオペラバレエのレパートリー作品となりました。
ピナバウシュが18年という長い年月のあとにも関わらず、もう一度命を与えたこの作品。
歴史はこういう思いによってつくられていくんですね。ピナバウシュがこんな風に思わなかったら、たとえ思ったとしても忙しい中実行に移さなかったら、「この作品を残していきたい。」と強く思わなかったら、先週私がこの作品を見て感動することもなかったでしょう。歴史は歴史家がつくるものだけではなくて、当事者たちが意識的に残す歴史もあるんですね。

Christoph Willibald Gluckの音楽に合わせてドイツ語で歌うコーラスはオーケストラの後ろ側に立ち、舞台上には状況を表すダンサーの群衆と、オルフェオの歌い手と踊り手、エウリディーチェの歌い手と踊り手、そしてキューピッドの歌い手と踊り手が登場します。3人の主要登場人物は歌い手と踊り手の二人によって、光となり影となっては一人の人物を表すのです。


第一幕「喪」。
エウリディーチェの死の前に、嘆き悲しむオルフェオ。
Orphee1.jpg Orphee2.jpg

黒い衣装を着た群衆が手をサーっと上に伸ばすダンスが素晴らしく美しかった。
手を上にあげてるだけなのに、魔法にかかったように見とれてしまった。
Orphee4.jpg Orphee5.jpg

舞台設定は、かなり不思議な空間が出来上がっていて、なんだかガラス張りの空間や枯れた植物のようなものが見えたけど、それらの必要性があまり感じられませんでした。
ところどころにチョークで円や子供の頃にしたケンケンパのステップが踏める四角が描いてあり、最後に死の世界へエウリディーチェを迎えに行こうと決めたときに、キューピッドが道しるべをするのに、舞台上に斜めにチョークでサーーーーーーーッと線を引いて舞台からいなくなるのがとても効果的で印象に残りました。


第2幕「暴力」。
舞台右手に木の椅子が何段にも積み重ねられています。その椅子でできた天井まで届くかのような塔から、細い白い糸がつながれていて、その糸はこの地獄の住人につながれています。
住人であるダンサーが動くと、床にはった何本もの糸が曲線や直線を描いて、とてもきれいでした。
糸だけでこんなに美しい効果があるなんて!なんて経済的な!と感心し、その美しさにホケーとなりましたが、その美しい線を描く糸によって地獄につながれている住人の苦しさのギャップがまた良かったです。
Orphee3.jpg Orphee6.jpg

ここでの登場人物は、地獄につながれた住人たちと、地獄の番人3名。
地獄の番人3人は、なんだか黒いエプロンみたいな衣装を裸にまとっていて、私には最初から最後まで筋肉むきむき踊るストリッパー3人にしか見えませんでした。ダンスはとても良かったけど。それを一緒に行った配偶者に言うと、彼は彼で「最初から最後まで肉屋の兄ちゃん3人にしか見えへんかった。」と言ってました。みんなそれぞれ解釈が違いますね。


最も美しかったのは、第3幕「平和」。


天国の住人たちのダンスと揺れるスカート。気が遠くなるほど美しい。
最後にオルフェオが左手前から、エウリディーチェが右手奥から出てきます。オルフェオはエウリディーチェに背を向けて立っています。オルフェオの姿を発見したエウリディーチェはゆっくりゆっくり彼のほうに歩み寄り、その気配を感じたのか、オルフェオも彼女のほうへ背を向けたまま、二歩、三歩、と歩を進めます。その二人の間の空間。
今回の舞台で最も美しかったのは、ダンスでもなく、ダンサーでもなく、衣装でもなく、舞台装置でもなく、この二人の間の空間。ライトに照らされた何もない床。これを見て、私は泣きました。
その空間は最後に優しく触れられて、つながれた二人の手によって埋められます。


第4幕「死」。
Orphee7.jpg

何もない舞台の上で真っ赤のドレスを着たエウリディーチェ踊り手と、裸のオルフェオ踊り手、そしてそれぞれの歌い手が一人ずつ。と計4名しか舞台にいません。
死の世界から生の世界へ行く道。ふたりの葛藤。
絶対に頭をあげずに、眼をつむったまま踊るオルフェオ。自分を見てくれなくて絶望するエウリディーチェを感じ、苦悩に耐えるオルフェオ。どんなにふたりが美しく表情豊かに踊っているときよりも、再び死のうとするエウリディーチェを引き止めようとして彼女を見、抱きしめてしまったあとのオルフェオの背中が素晴らしかった。歌い手のエウリディーチェと踊り手のエウリディーチェが死を表す十字架の形に横たえられ、そのうえを覆いかぶさりながら、嘆き悲しむオルフェオの歌い手。その間、とても長い間、踊り手のオルフェオは舞台の左奥に観客に背中を向けて座り込んでいます。私たちが見えるのはその背中だけ。すごくすごく美しくて哀しい背中。身体を動かすことなしに、成立するダンス。素晴らしい。


かなり満足できた公演でした。
安い席を取ったのに、偶然にもとてもよい場所で見ることができました。満足満足。
しかし普段、コンテンポラリーダンスを見ている私としては、やはり全てのダンサーが美しくて同じような身体の持ち主で、っていうバレエカンパニーの踊るのには、ちょっと慣れないというか、抵抗がありました。
私がコンテンポラリーダンスが好きな理由は、ダンサーたちに、背の高い人もいれば背の低い人もいて、すこしボリュームのある人もいればガリガリの人もいて、白人もいれば黒人もアジア人もいて、みんながそれぞれの育った文化や環境を背負って舞台に立っているからです。そこには表現と技術が必要で、何センチ以上の背が必要なわけではきっとない。
その点ではいつもクラシックダンスを主に踊るバレエ団は結構苦手です。
同じバレエ団でも国籍のさまざまなダンサーで構成されていることで有名なリヨンバレエ団なんかは、とても楽しく見れます。
まあでも、今回のダンス オペラの場合は、群衆で踊る部分なんか、「やっぱりクラシックを踊るバレエ団ならではの美しさなのかな?これがピナバウシュのカンパニーではこの美しさは出ないかな?」と思いました。まあどちらも観てみないとどんなに考えても一生わからない疑問ですが、、。
もう一つのピナバウシュのダンス オペラ、「タウリスのイフィゲネイア」もいつか見てみたい。

いまならこのページから公演のヴィデオが見れますよ。


このオルフェオとエウリディーチェのお話。
女はほんとにうざい生き物やな。と思いました。
すぐに「なんで私のこと見てくれへんの?」「私のことほんまに好きなん?」「なんでしゃべってくれへんのー?」「もうそんなんやったら死ぬー!」なんて。
黙ってついてこんかい!
と公演中何度思ったことか。
昔の日本女性なら、例えば原節子なら、この話は悲劇にならず済んだはず。
そう思いません?
でも私もきっとエウリディーチェみたいにワーワー言ってしまうわ。でもせっかく生き返れるんなら、「なんでやろ?何ムッツリしたはんにゃろ。」と思いながらも最後まで付いて行くけどな。
02/12 02:51 | コンテンポラリーダンス | CM:4 | TB:0
Garry Stewart 「Devolution」


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ダサいものを見た。

ほんまにださくて、観ている間恥ずかしくて仕方なかった。

この思いを撒き散らしたいので、気の赴くままに書きます。

それは昨日Theatre de la Villeに観に行ったGarry Stewartというオーストラリア人振付師の新作。

私は作品を一度も観た事がなくて、よく知らないコレグラファーのチケットは基本的に、紹介文に添えてある写真で選んで買います。まあ世で言うジャケ買いってやつ。

でも、今回のダンス公演、まずなんでジャケ買いをするにいたったのかわからへん。だって、写真がすでにださい。
garry-stewart.jpg

ね?あんまり長いこと観るとイライラしてきます。

たしかこの公演のチケットを買ったときの私は、多分こういう風に思ったのです。「この写真、、、、どうしよう、、、オーストラリアねえ、、、どうしよう、、、でも最近コンセプチャルな洗練されてる舞台しか見てないし、、、ヨーロッパ人以外の作るダンスもたまにはいいかな。」

そうそう、たしかそうやった。そんな風に思ってまあ多くの中の一枚として買ったんやった。


さて、公演が始まってから、、、
「お!こういうちゃんとダンサーが踊るダンス公演久しぶりやな~。」と最初は普通に見ていましたが、どうも様子がおかしい。

すごく表現してるん。めっちゃ演技してるん。

そうです。当たり前です。だってバレエだってダンスだって基本は演技です。しかーし!私はそういうの苦手なんや!だから身体やカタチや動きというものの研究を突き進めていった場所にあるコンテンポラリーダンスが好きなんです。

うわー、「苦しさ」を表現してるよ、、、

困った、、、

みなさん、昔「ショーガール」っていう映画あったの覚えてますか?すごく酷評されたの。Wikipediaにも載ってるくらい。あれかと思った。この舞台、ダンサーたちが裸やったらこのお金かけただけで「ソフィスティケイト」の「ソ」の字もない、イケテナイ舞台といい、まさにラスヴェガスのショー並み。


もうダンサーたちが舞台にこれでもかというくらいに設置された「マシン」と戦ってるシーンに気付いたときは吹きました。さすがに一緒にいった人に「ちょっとマシンと戦ってはるけど、これほっといていいのん?」と耳打ちしてしまった。

そんなのは序の口で最後のほうには、マシンに体を支配されたダンサーたちが舞台をのた打ち回ったり、、、

もうお願い、、、助けて、、、

観客も笑ってたよ、、、

もう恥ずかしいよ、、、

そういうのTheatre de la Villeでやったらあかんよ、、、


「猿の惑星」?「スターウォーズ」?
(ちなみに私は猿の惑星もスターウォーズも映画としてよくできていると思うし、ダイスキです。)
これはあかん。これはアートじゃないよ。見世物や。


Theatre de la Villeではなく、もっと大きい会場で最近フランスで流行っているミュージカルなんかと一緒にやればいいのに、、、
観客の選択を間違えてるよ、、、


やっと終わったー、ふ~。と思ったら、会場からピーピー口笛の嵐。
「最低!」なんて言葉もあとで出てきたダンサーさんたちに浴びせられていましたが、個人的にそういうリアクションはあまり好きではないのです。ま、あとでブログにこんな愚痴を吐き出してますがね。

ダンサーさんたちやそのほかの関係者はちゃんと仕事したわけやから、私は一応拍手しました。彼らに罪はない。


いっやー、ほんまにイタかった。ダサかった。


一緒にいった人が「カナは厳しすぎるよー。」なんて言ってたけれど、彼自身、「あれってターミネーターだったんだよね?」とか一番ひどいことを言っていてめっちゃ笑った。

まあ中途半端なものを観て、あとで一緒にいった人と何も語り合えないよりかは良かったかな。それなりに楽しんだし。

でももうこのコレグラファーはいいや。

ちゃんちゃん。




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11/19 03:49 | コンテンポラリーダンス | CM:0 | TB:0
Sidi Larbi Cherkaoui 「Myth」


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22年もの間ディレクターとして君臨しているGerard Violletteが引退し、その席を2008年6月から、37歳の若手演出家Emmanuel Demarcy-Motaに譲るというニュースが発表された9月25日の世界屈指のコンテンポラリーダンスの殿堂、パリ市立劇場。この日、そのニュースと共に期待を持って2007ー2008年度ダンスプログラムの幕開けに選ばれたのは、Sidi Larbi Cherkaoui の最新作である「Myth」。
これがGerard Violletteによるプログラム最後の年かーと感慨にふけりながら、「Myth」を見てきました。

sidi-larbi-cherkaoui-myth.jpg

Sidi Larbi Cherkaouiは30歳のベルギー人コレグラファー。アラブ人の父親とベルギー人の母親を持つアントワープ生まれ。ベルギー人でなければアラブ人でもない、ベルギー人のような顔をしたアラブ人の名を持つ子として育ちます。
ピナ バウシュや、「Les Ballets C. de la B.」で共にクリエーションを行ったアラン プラテルなどの、80年代から頭角を表してきたコレグラファーの影響を強く受けています。しかし彼のインタビューによれば、ピナ バウシュがダンスに演劇という概念を足したように、彼はダンスに生演奏の音楽を付け加え、アラン プラテルが個々に重きを置くダンスを深く研究しているのに対して、彼は人間と人間の関係、二つの個体が創りだす調和に重きを置くのです。

私が彼に出会った最初の作品はアクラム カーンとのコラボで発表したZero Degree。このブログにもアホみたいに感情にまかせて感動しまくった!という記事を書きました。(ブログ内検索で探してみてください。)

さて私にとっても2007ー2008年度初のコンテンポラリーダンス鑑賞を飾ったこの作品。
実は普段の私なら絶対にしないことをしてしまいました。
それは作品を観る前に批評を読んでしまったということ。展覧会でも映画でもダンスでも演劇でもパフォーマンスでも、紹介文は読んでも批評は鑑賞前に絶対読まないという鉄則を自分に押し付けている私なんですが、今回は何故か、何も考えずに眼を通してしまったのがル モンド。

ル モンド紙の評価ではかなりの酷評であったこの作品。読んでしまったいろんなことは忘れて、ニュートラルでいなきゃ!と思いながら、とにかくこの作品のテーマであるらしい「トラウマ」ということだけ頭に置くようにして、挑んできました。


で、実際観てどうだったかというと、ワタクシ個人的にはこういう類のコンテンポラリーダンスはまーーったく好きではありません。
私は現代アートでもダンスでもコンセプトがどうとか前衛的なのがどうとかいうことよりも、ただただ造形的で神秘的な美しさを求めるタチなので、そういう意味ではやっぱり今では大御所と呼ばれるコレグラファーの創り出す世界が好きなのです。悪い言い方をしてしまえば、ごちゃまぜの何でもアリのような舞台は好きではありません。別に見ますけど。たとえばJan Lauwersの世界とかね。


しかしたかが私個人の好き嫌いや、たまたま目に入ったジャーナリストたちの意見だけでは、ダンスを語るにはあまりにも安易すぎないか!という点を、2007-2008年度のダンス鑑賞の中心に置いていこうと思い立ったので、いろいろ書いてみます。そのうえ、私が好きであろうとなかろうと、ル モンドの記者がどう書いてようと、この作品の質はやはりかなり高いものであったし、これは誰でもが創れるものではないと、違った意味での感動をしたからです。


舞台は両サイドにアラベスク風のすかし模様の入った壁が設置され、奥には重厚な本にうめつくされた本棚と天井まで届く巨大な開くことのない扉。

コンテンポラリーダンスの公演で私が出会う舞台設定といえば、舞台という限られた高さと幅と奥行きのある空間であるにもかかわらず、公演が始まると、そのような限られた空間を越えて、まるで、どこまでも続くかのように思われる別の異空間に飛び込むような感覚を得ることが多いのです。そういう感覚に何も考えずに身を任せられるということは、また、作品自体にぐんぐんひきこまれていく自分を感じ、私としては至上の喜びを感じる瞬間でもあるわけです。

しかしこの作品では、舞台の幕が開いた瞬間、「閉ざされている。」と思ったのでした。開かない扉は、何の説明もないのに「あれは開かないんだ。」と瞬時に感じていました。

そのような舞台設定と、7人のミュージシャンと14人のダンサーによって、作品は構成されているわけですが、ダンサーによって表現される登場人物たちは、多種多様。花嫁。おばちゃん。女装したゲイ。兵士。カトリック教徒の冴えない娘。
しかしみな一様に、何かに恐れているのです。
そして黒い衣装を身にまとった獣のように動くダンサーたち。
彼らは獣であるのに、まるで登場人物の影、または奥深い部分を体現するかのようにつきまとい、時にはおおいつくしてしまいます。

そのような中で舞台は進むのですが、まず最初の本棚から本が登場人物たちの頭にふってくるシーン。
本棚が人間の培ってきた知識や歴史を記し、残している「本」の宝庫であると考えるならば、この本が頭にふってくるという状態は、現在の私たちがえらそうに上にのっかっている知識や歴史というものが人間の頭に落ちてきて逆に私たちを滅ぼすと捉えられるのではないか。その痛さや恐ろしさを最初のシーンに設定することによって、この作品が「トラウマ」と「人間」と「その歴史」などのテーマを持っていくんではないかと、私の頭によぎりました。

作品が進んで行くにつれ、私が感じたのは、
「人間の歴史というものは一種の「トラウマ」というものから成り立っているのではないか。」
ということ。

どのような宗教や環境の中にいようと、人間という「民族」の意識に、いやそれこそ大げさに言ってしまうとDNAに長い歴史の中で組み込まれてしまった「トラウマ」

そのようなトラウマはいつも宗教というものを生み出し、人間を支配していくのかもしれない。どの宗教でも存在する「神」というものも結局は人間が創りだしたものでしかないのだ。

後半のシーンでとても強く印象に残った部分がありました。
それは、それまで黒い衣装を着ていた男女のダンサー一組が肌色に近い衣装になり、男性ダンサーが、死体と化した女性ダンサーを死んだことが信じられず、なんとか動かそうと動物のように踊るシーン。それはまさに愛する者の死を前に、死という概念を受け入れ、あきらめ、しかしそのどうしようもない感情がトラウマというものに変化していく過程であるかのよう。そして彼女を動かそう、生き返らせようとするのをあきらめたとき、知識の宝庫である本棚の辺りから、長い長い裾をひきずった別のダンサーが死体となっている彼女の衣装を縫いはじめるのです。
そのとき私は「ああ、これで傷を封印することができる。新しいところへ進める。」と安堵感のようなものに包まれたにも関わらず、作品中、ずーーーーーーーーーっと本を読みふけっていたある男性ダンサーが、大量の重たそうな本をふらふらになって転びそうになりながらも、必死で運んでいるのです。「そんなもの捨てて!やっと解放されるのに!トラウマじゃ先に進めないのに!」と私が心で叫んでも、彼はそれらの本を運び終わることに成功してしまいます。結局世の中っていうのはそういうことの繰り返しなのかもしれません。どこかで良い方向に何かが運んでも、また別の場所では別のことが同じ状態で停滞していたりするのです。

最後の最後、もうどうしようもなくなって何もかもがただの繰り返しになったとき、開かないはずの扉からノックの音が聞こえます。そこで入ってきた男性は2本の長い棒を背中に抱え、それらをまるで十字架のようにクロスさせながら踊ります。それはまさに十字架を背負ってゴルゴダの山へ登って行くキリストの姿。彼のダンスに魅せられて、彼に抱きついていく他のダンサーたち。まるで自分の中に彼を取り込むことが一番の命題であるかのように。
しかし彼は自分に懇願の眼でまとわりついてくる人間たちを引き離し、扉の向こうに押しやり、扉を閉めてしまうのです。

ここで私は「うへー。これ嫌い。」と一瞬思ったんですが、ふとそんな風に思うのは、彼がキリストであるという点でこの作品を見、まるで救世主のようにヒーローぶった行為に出る彼に嫌気がさすのであって、例えばまた別の捉え方をして、彼がただの「救世主的存在」であり、彼が実際にそうであろうとなかろうと、そういう存在にすがりつく人間たちと考えた場合、また、ずっと作品中感じていた「歴史というものは人間が創るものであり、それはトラウマと共に消えることがなく繰り返される。」ということをうまく表しているのかもしれないと、思い返しました。

なんだか気がついてみればやけに長々と書いてしまった、、、。
好きじゃなかったんやけど、こんなにだらだらと書いちゃって、、、。

次もSidi Larbi Cherkaouiの作品を観るかな。どうかな。まだわかりません。

そんなこんなで好きじゃないといいながら結構楽しんだみたいですね。私。

ひとつ書き足したいこと。それはダンサーの質の違い。ピナ バウシュやローザスやフォーサイスの大御所の率いるカンパニーのダンサーはやっぱり本当にすごいと思います。これらのコレグラファーも天才!なんて世界中で言われていても、毎年もう何十年も創りつづけていれば、もちろん駄作だってある。でもそんな「あ、ちょっと今年微妙?」なんて私のような小娘(そこまで若くないですけど)がえらそうに思ったって、抱えているダンサーたちの魅力やテクニックや表現や身体やジェスチャアの美しさで、「あー、やっぱ美しい!これが観れたからちょっとくらい作品自体は微妙でも目をつぶります!」っていう部分がひっじょーに大きいのです。実は。


あまりきれいにまとまっていないけど、いっぱい書いたのでクリックお願いします。
ここまで読んでくれた人どうもありがとう。


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10/01 23:20 | コンテンポラリーダンス | CM:0 | TB:0
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